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武田信豊 (甲斐武田氏) : ミニ英和和英辞書
武田信豊 (甲斐武田氏)[たけだ のぶとよ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 
甲斐 : [かい]
 【名詞】 1. effect 2. result 3. worth 4. use 5. avail 
: [うじ]
 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth 

武田信豊 (甲斐武田氏) : ウィキペディア日本語版
武田信豊 (甲斐武田氏)[たけだ のぶとよ]

武田 信豊(たけだ のぶとよ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の親族衆で庶流の吉田氏を継いだ武田信繁の次男〔平山(2008)、p.328〕。信豊は武田信玄の甥で、武田勝頼の従弟に当たる〔平山(2008)、p.328〕。父・信繁が第4次川中島の戦いで戦死し、望月家に養子に入っていた兄・義勝(望月信頼)も父の死の直後に早世したため、信豊が跡を継ぐ。『甲陽軍鑑』に拠れば幼名は「長老」、は当初は「信元」で後に「信豊」に改名したとされるが確認されない〔黒田(1987)、p.12〕。正室は西上野の国衆小幡憲重の娘〔平山(2008)、p.328〕。
== 生涯 ==

=== 出生から家督相続 ===
天文18年(1549年)、武田氏の当主・武田信玄の実弟である信繁の次男として生まれる。母は不詳であるが法名が「養周院日藤尼」で、天正10年(1582年)3月16日に信豊とともに信濃小諸城で自害している〔黒田(1987)、p.12〕。信豊の生年は『当代記』に記される「享年34」より逆算〔黒田(1987)、p.13〕。
系図類に拠れば信繁には3人の男子があるが、長兄の信頼は『高野山引導院過去帳』に拠れば天文16年(1547年)出生で、信濃国佐久郡国衆望月氏を継承し「望月三郎」を称した〔黒田(1987)、pp.12 - 13〕。このため、信豊は早くから信繁の嫡男として扱われており、生母が信繁の正室であったとも考えられている〔黒田(1987)、p.13〕。『武田源氏一統系図』によれば信頼は永禄7年(1564年)に病死しており、望月氏は弟の信永(実名を「義勝」とする史料もあるが未詳)が継承し、信永は天正3年(1575年)の長篠の戦いで戦死している〔黒田(1987)、p.13〕。信永の戦死後は信豊の娘婿が望月氏を継承する〔黒田(1987)、p.13〕。
永禄元年(1558年)には信豊にあたる「長老」に対して「武田信繁家訓」を授けている〔平山(2008)、p.328〕。これは九十九か条の家訓で、『群書類従』巻403に収録されている。『群書類従』では「信玄家法下」と呼称されているが、これは甲府の長禅寺二世・龍山子(春国光新)による序文の位置の誤りから生じた呼称とされ、現在では古写本の堀田本に基づき「武田信繁家訓」と称されている〔勝俣(2007)、p.387〕。
永禄4年(1561年)9月、第4次川中島の戦いにおいて父の信繁が戦死し、信豊は後を継いで親族衆に列する〔平山(2008)、p.328〕。『甲陽軍鑑』に拠れば信豊は200騎を指揮したという〔平山(2008)、p.328〕。『甲陽軍鑑』によれば信豊は武田家臣団において親族衆の穴山信君とともに勝頼を補佐する立場にあったという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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